昭和二十五年、那加楠町。
わずか五坪たらずのバラックで、冬の夜は粉雪が舞い込んで来る仕事場に、小さな活版機を一台備えて、先代会長 井奈波正治と妻のみな枝が、イナバ印刷社の灯をともしました。
祖父 正治は昭和四年、小学校卒業後に印刷会社の活版部の印刷工として働き出します。
十年以上の経験の後、昭和二十一年独立の準備にかかりました。
印刷械を購入し、分解してリュックサックにつめ、肩に食い込むのを背負って帰り、活字を求めて金沢の宝文堂という活字屋さんへ夜行列車で出かけて行きました。
名刺に必要な文字を文撰箱に二十四杯。リュックサックに入れ、列車の出入り口に座り込んで、トンネルの煙になやまされながら岐阜に持ち帰りました
準備も整い「名刺の印刷承ります」とポスターを書いて、県庁と市役所に近いマーケットと、柳ヶ瀬の事務用品の店と、新岐阜駅の近くのマーケットと三ヶ所にお願いした所、マーケットの人が十四枚の原稿を届けてくれてあったのが、始めてのお客様でした。
各務原に新加納と言う場所がありますが、ここにある坂に思い出があります。
岐阜で仕入れた紙を、横付け自転車で新加納の坂を上るのは大変でした。
紙をいっぱいに積んでいて上れないので、ハンドルの左右に縄をつけて、自転車を後ろから押して上って行きます。
ある時祖父が体調を崩し、祖母が代わりに紙を買いに、岐阜まで出かける事になりました。
横付け自転車に乗ったことのない祖母は自転車の練習をしてから、紙の仕入れに向かったそうです。
四時までには帰る予定でしたが、五時をすぎても帰って来ません。不安になって新加納の坂で待っていると、闇の中にポカッポカッと蛍の火の光の様に灯りが見え始めました。
女性の力ではぺタルを踏み続けることが出来ません。体重をかけてペタルを踏んだ時だけ、ランプが光るのです。
車の無かった時代は紙を買うだけでも大変だったみたいです。